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2014年2月24日月曜日

年末年始旅行(2013~2014年)(14)滋賀軌道・京阪大津線編


では、浜大津駅(A)から御陵(みささぎ)駅(B)まで前面眺望を撮影しながら移動したいと思います。
(しかし、漢字は難しいですね。天智天皇陵の近くにある「御陵」は「みささぎ」と「陵」の訓読みするのに対し、仁徳天皇陵に通じる道路の近くにある「御陵前」は「ごりょうまえ」と音読みで読むのですから、面倒くさいです。)

しかし、その前に浜大津駅前で電車撮影を行いました。これは機関車トーマスのラッピング電車です。
浜大津駅周辺で主に石山坂本線を撮影した後、浜大津駅に入り、京津線の前面眺望を撮影します。今回も福井県内のドライブ動画で活躍した巨大な吸盤2個付きのビデオ固定用マウントで撮影します。(というよりも、今回の撮影の予行演習を福井県内のドライブで行ったのが実態です。)

では、路面電車眺望シリーズ第1回となる京阪・京津線・浜大津から御陵までの前面眺望をご覧下さい。

撮影後、蹴上駅から京阪山科駅へ戻り、山科駅からJRで堺に向かいます。

2014年2月9日日曜日

年末年始旅行(2013~2014年)(13)滋賀観光・琵琶湖疏水編


見所満載だった園城寺(A)を後にし、琵琶湖疏水(B)を見ながら、浜大津駅(C)に戻ります。園城寺に入るときに通った園城寺町交差点を右折し、園城寺を右手に見ながら、進んでいきます。道なりに長等小学校を回りこむように左に曲がっていくと、琵琶湖疏水が現れます。

2014年2月8日土曜日

東京が銀世界に覆われています。

今日の東京は朝から降っていました。13年ぶりに大雪警報が発令されたと言うことで昼過ぎに駒込駅に降りると、既に雪が積もっていました。

山手線も白く雪化粧された軌道上をゆっくりと進んでいました。この間も比較的乾いた雪が降り続けていました。

駒込で要件を済ませ、外に出ると、積雪が既に10cm以上となっていました。そのため、主要道路を除くと、道が真っ白となっていました。積雪は年末に訪問した福井と同じぐらいですが、雪の備えをしている福井と異なり、除雪車がなく、雪を融かすスプリンクラーが道路に設置していない東京では除雪する手段がなく、歩くことが福井の時より困難でした。
19時になった頃、鉄道運行状況を見ると、見事に赤と橙で埋められており、首都圏の鉄道が麻痺しつつあることが感じられました。

大塚駅に向かい、都電荒川線の様子を見てみると、雪によるポイント故障により全線で運転を見合わせ、復旧のめども立っていないとのことでした。このため、7000形が大塚駅前電停の早稲田方面ホームで立ち往生していました。しかし、その姿はとても都内の路面電車とは思えませんでした。

大塚駅前電停より少し早稲田より軌道ですが、すっかり真っ白になっており、どこがポイントかわからなくなっていました。札幌市電や函館市電のようにササラ電車がなく、また富山地鉄や万葉線のように除雪車もない状況では致し方ないところでしょう。

仕方がないので、JR山手線の大塚駅に戻りました。強い風雪がプラットホームに吹きすさぶ中、JR東日本の職員の方がホームを除雪し、ホームドアが開閉できるように雪を取り除いていました。
印象的なのは、職員の方が「ここが大塚とはとても思えねえ。」と言ったことです。確かに都内都心部の駅の光景ではないと私も思います。

池袋駅側から大塚駅に進入する山手線外回りのE231系500番台の様子を動画で撮影しましたが、着雪により架線とパンタグラフの間でスパークが多数発生しているのが認められます。また、よく聞くとわかりますが、内回りにはひっきりなしに電車が入ってきており、まだプラットホーム上に電車が停車し、ホームドアを閉めようとしているところにもかかわらず、次の電車の到着案内が始まっています。

上の動画で撮影した山手線外回り電車に乗ることにしたのですが、品川駅での電車故障により大塚駅で20分以上停車することになってしまいました。その間、「抑止」という表示がされていました。内回り電車を10本程度見送った後、出発しましたが、今度は巣鴨駅で10分ほど足止めされました。今度は駒込駅でホームドアが故障し、先行する電車が停車しているとのこと。
JR東日本の情報を乗客に細かく伝えてくれる姿勢には感心しますし、ありがたいことなのですが、雪による不可抗力のトラブルが続くと、さすがに苦笑せざるを得なくなります。しかも、この山手線電車は69分以上遅れているとのこと、つまり、周回遅れになっているということなので、余計にそう感じました。

この天候は9日未明まで続くと言うことなので、明日早朝の首都圏の状況が気になるところです。しかも、明日は東京都知事選挙です。期日前投票をしていないので、積雪の中、投票しなければなりません。とほほ。

2014年2月2日日曜日

年末年始旅行(2013~2014年)(12)滋賀観光・園城寺(三井寺)後編

では、園城寺(三井寺)後編を始めたいと思います。
今回は⑫~⑲(赤字)を報告します。前回は①~⑪(黒字)を報告しました。なお、前々回報告した弘文天皇陵及び新羅善神堂は北側(画面右側)にあり、次回報告する琵琶湖疏水は東側(画面下側)にあります。

年末年始旅行(2013~2014年)(11)滋賀観光・園城寺(三井寺)前編


弘文天皇陵を後にし、徒歩で園城寺(三井寺)に向かいます。
今回、園城寺内の建造物を見学していくことにします。
では、その前に園城寺の歴史の概略を述べさせていただきます。

園城寺は7世紀に近江大津京ゆかりの地に大友氏の氏寺として草創されました。天智天皇の孫であり、672年の壬申の乱で天武天皇に敗れた大友皇子(弘文天皇)の皇子である大友与多王は父の霊を弔うため、自らの邸宅の地であった「田園城邑」を寄進し、寺を創建し、天武天皇より「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。
平安時代に下り、貞観年間(859~877年)になり、天台宗の智証大師円珍和尚が園城寺を天台別院として再興しました。しかし、円珍の死後、天台宗内で円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、993年円珍門下は比叡山を下り、園城寺に移りました。これ以後、比叡山延暦寺と園城寺との対立抗争が続きました。なお、比叡山延暦寺を「山門」、園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」ともいいます。
園城寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を受け、藤原道長や白河上皇等が深く帰依したことが知られるとともに、源氏などの武家の信仰も集め、源頼朝や北条政子、鎌倉幕府の保護や南北朝の内乱では北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けました。ただし、この両幕府からの厚遇は強力な権門である比叡山延暦寺の寺社勢力を牽制するためともいわれています。
1595年、天下人であった豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられましたが、死の直前に園城寺の再興が許され、再興が進められた結果、現在の寺観となりました。
明治維新後、「天台宗寺門派」を称していましたが、1946年以後は「天台寺門宗総本山」となっています。