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2010年2月25日木曜日

「涼宮ハルヒの消失」の劇場版を見に行きました。

2月14日(旧暦1月1日)に三宮にある神戸国際松竹で「涼宮ハルヒの消失」を見に行きました。
「涼宮ハルヒの消失」は2006年及び2009年にTV放映された「涼宮ハルヒの憂鬱」の続きにあたる話であり、原作の涼宮ハルヒシリーズの中でも人気が高い話となっています。
当初、12:50からのチケットを購入しようとしましたが、11:30頃に到着したときには既に売り切れで、16:00からのチケットを購入しました。
甲陽園及び南京町周辺で時間をつぶした後、16:00からの上映に臨みました。
感想を端的に述べると、「見に来て良かった。」です。

162分(2時間42分)のとても長い上映時間でしたが、上映時間を長いとは感じませんでした。映画館に時間ぎりぎりに入ったもので、のどが渇いた状態だったのですが、その渇きを忘れるぐらいに映画に集中していました。
基本的には原作である第4巻「涼宮ハルヒの消失」の通りでしたが、原作の内容を昇華した形で描写されている部分も多数ありました。

では、私が感じた印象的なシーンを5つ挙げます。
以下、映画の内容が記述されているので、ご覧になりたくない方はご注意願います。最後に飛ぶをクリックすると、最後の方に飛びます。また、原作の涼宮ハルヒシリーズやTV版をご覧になっていない方については同作品中で用いられる用語があり、不明な点もあるかと思いますが、ご了承願います。
最後に飛ぶ




まず、文芸部室で鍵である5人が揃い、PCが起動し、脱出プログラムが起動したとき、主人公キョンが元の世界に戻すことを決意するシーンです。

原作ではPCが起動した後、キョンのモノローグが続き、元の世界に戻すことを決意した後、
 俺はポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出し、
「すまない、長門。これは返すよ」
差し出した白紙の入部届けに、長門の白い指が緩慢に伸びた。
となっています。

劇場版では、「栞」と「入部届け」がアップになった背景の中、キョンのモノローグが続いた後、元の世界に戻すことを決意し、キョンがポケットから「入部届け」を出すと同時に、「栞」を落としてしまい、その「栞」を(消失)長門が拾うとする前に、キョンが自分で拾い、「入部届け」を(消失)長門に返しています。
「栞」と「入部届け」は元の世界に戻すか、改変された世界のままにするかの選択肢を象徴するものであり、劇場版ではその原作の表現に、上記下線部の描写を加えることでその選択肢を長門有希の力を借りずに自分で選んだことを示しているのでしょう。


次に、キョンが脱出プログラムを起動させ、時間跳躍をするシーンも印象的です。
前述の行為後、キョンが脱出プログラムを起動させるため、PCのエンター(Enter)キーを押します。このエンターキーについて、ネットでhttp://p4d.co.jp/attic/dosharuhi.htmlを見て、感じたことですが、あれは改変されていない元の世界、正確には改変が及ばなかった3年前の七夕に戻るという意味を劇場版ではかけている可能性があると思われれます。
原作では特に機種の特定はしておらず、コンピュータ研より奪取した最新機種の三世代ばかり旧型とだけ、記述されています。
そして、PCのCRTモニタ(これも別の場所に記述あり)にメッセージが表示され、

Ready?
O.K.さ、もちろん。
俺は指を伸ばし、エンターキーを押し込んだ。
その後、脱出プログラムが起動します。

それに対し、劇場版ではWindows95が動くCRTモニタのPC-9821(*1)が描写されていました。後は原作同様にエンターキーを押し込み、脱出プログラムが起動します。
ここで気になったのは、押したエンターキーとPCの機種です。PC98シリーズのキーボードはその晩期に現在普及しているPC/AT互換機との互換性のため、エンター(Enter)キーとなったようですが、長らくこのエンター(Enter)キーに対応するキーはリターン(Return)キーと呼ばれていました。このエンターキーを押す行為に「戻る(Return)」の意味を含ませたのかもしれません。


更に、この直後キョンは原作では強烈な 立ちくらみに襲われ、俺は思わずテーブルに手をつこうとして、そしてぐるりと視界が回る。耳鳴り。誰かの声が遠くからから聞こえることになります。
劇場版では様々な人物が台詞を話しているのですが、その中でも私が特に聞きとれたものが朝倉の「許さない」をいう台詞です。これが後の襲撃シーンの伏線になっています。

(*1)
TV版では、コンピュータ研より奪取した最新機種は液晶モニタのタワー形のPC/AT互換機であり、搭載OSがWindowsXPでした。家庭用PCに搭載されてきたOSがWindows95、同98、同Me及び同XPとなってきたことを考えるとちょうど三世代ばかり旧型になります。また、Windows95の時代にはPC/AT互換機(DOS/Vマシンとも呼ばれていました。)とNECのPC-98シリーズが併存していました。

第3に、(異常動作をおこした)長門による12月18日早朝の時空改変の後、改変作業を終えたばかりの(消失)長門を前にし、自問自答するキョンのシーンです。原作では
それでだ、俺。そう、お前だよ、俺は自分に訊いている。
(中略)
-そんな非日常な学園生活を、お前は楽しいと思わなかったのか?
(中略)
「楽しかったに決まっているじゃねえか。解りきったことを訊いてくるな」
(中略)
宇宙人に未来人に超能力者だそ?
どれか一つでも充分なのに、オモシロキャラ三連発だ。おまけにハルヒまでがそこにいて、より一層のミステリーパワーを振りまいているんだぞ。これで俺が面白くないわけないだろうが。そんな立場が不満だと言ったら、そんなことを言う奴を俺は半殺しにするかもしれん。
となっています。

劇場版では自問自答の心理描写を2人のキョンで表現していました。机を前に椅子に座っている1人目のキョンとその後ろの机から1人目のキョンの頭を足蹴にする2人目のキョンが訊ね、1人目のキョンがそれに対し、足をはねのけ、立ち上がり、答えていました。キョンが今までの傍観者的立場から、能動的に動くことを決意したシーンであり、その自問自答を視覚的に明瞭に示したことがわかる表現でした。
また、キョンが袖をつかんでいた(消失)長門から離れ、自動改札を通過したとき、元の世界への切符ともいえる「栞」が自動改札機を通っていたのも印象的でした。


更に、朝倉の襲撃シーンも非常に印象に残りました。というより、背筋が寒くなるほどインパクトがありました。
原作では
朝倉は俺の血が絡みつくアーミーナイフを挨拶するように振った。
「そうよ長門さん。わたしはちゃんとここにいるわよ。あなたを脅かす物はわたしが排除する。そのためにわたしはここにいるのだから」
朝倉は嗤った。
「あなたがそう望んだんじゃないの。でしょう?」
となっています。
劇場版ではキョンの血が絡みつくサバイバルナイフを持ちながら、朝倉涼子があざけりの笑いを含ませ、舞いながら朗らかに台詞を放ちます。その様子はホラー以外の何者でもありませんでした。


最後に、改変騒動が一応収束し、キョンのもとに正常化された長門が訪れ、自身の処分が検討されようとしていることを告げるところから、雪が降るまでのシーンです。

原作では
ベッドに横たわりながら俺は天井を見つめ続け、それが報われたのは深夜になってからのことだった。面会時間はとっくに過ぎている。
病室の扉がゆっくりとスライドし、通路の光が小さな人影を床に落とす。
この日、最後に俺を見舞いに来たのは、セーラー服を着た長門有希の姿だった。
とあり、病室にいたキョンのもとに(正常化された)長門が訪れています。
その後、自身の創造主である情報統合思念体に自身の処分が検討されていることを告げた長門に対し、キョンは長門の処分が実施された場合、世界改変の能力を持つ涼宮ハルヒを焚き付け、長門を取り戻すことを宣言し、それに対し、「ありがとう」と長門が述べています。この後、原作ではエピローグに入るため、病院での描写はされていません。
劇場版では原作と異なり、甲南病院の屋上に佇んでいたキョンのもとに(正常化された)長門が訪れています。その後、原作同様にストーリーが展開し、「ありがとう」と長門が述べた後、雪が降り始め、キョンが「ゆき」と述べます。この台詞に長門有希が反応を見せます。この「ゆき」というアクセントが微妙で、私にも長門のファーストネームである「有希」と聞こえましたが、状況を考えると「雪」と言っているのでしょう。ここは制作者側がどちらにもとれるように意図的に行ったのだと思います。ラストシーンが印象的になるように、病室ではなく、雪が降る冬の神戸の夜景を選んだのかもしれません。(高いビルが印象的だったのですが、高いビルは阪神御影駅前に建設されている御影タワーレジデンスですかね~。)

よく考えると、劇場版で原作に付け加えられた、あるいは変更された箇所が上記印象的なシーンとして感じたところですね。
でも、(元の)長門が抱いていた感情によるものと思われる内部エラー(「消失」の直前の話となる「サムデイ イン ザ レイン」の長門の様子から「キョンと一緒にいたい」という想いがあったものと推測されます。)により、宇宙人、未来人及び超能力者が存在しない普通の世界に改変され、長門自身は宇宙人ではなく、普通の少女となり、涼宮ハルヒがキョンのそばにいない状況を作り出したにもかかわらず、肝心のキョンには涼宮ハルヒがそばにいる元の世界を望まれ、元に戻されたことを考えると、切ないですね。



とにかく、今回の劇場版「涼宮ハルヒの消失」は非常に良かったと思います。ストーリー、作画(私には背景が特に印象的でした。)、声優陣、音楽等が高いレベルだったと思います。ただし、私はTV版28話分と「消失」を含めた原作小説の涼宮ハルヒシリーズを全て見ているため、非常に楽しめましたが、そうでない人には理解するのに苦しいかもしれません。特に3年前の七夕のシーンでは「笹の葉ラプソディ」を見ておかないとわかりにくいでしょう。まあ、エンドテロップにもありましたが、全てのファンに感謝とあるように、ターゲットをハルヒファンに絞り、ほぼ原作通りに丁寧に作ったことが良い映画になった物と思われます。劇場版を何回か見ると、いろいろなことが次々と発見できるかもしれないですが、私には時間とお金がないので、映画館での鑑賞は1回だけになりそうです。
DVDもしくはBlu-Rayが出たならば、即購入することになりそうです。あ、それから2009年のTV新作部分のDVDについて、エンドレスエイトの件(*2)もあって購入を躊躇っていましたが、劇場版に免じて購入することにします。
(*2)
エンドレスエイトについては、8話もやるべきではなく、せいぜい3話(ループに気づかないで脱出失敗・ループに気づいたけれど、脱出失敗・ループに気づき、脱出成功)だと現在でも思っています。8話それぞれについては、手を抜いていないことはわかるのですが、企画に問題があったと個人的には思います。

引用文献
「涼宮ハルヒの消失」、谷川 流 著、株式会社角川書店 発行(赤太文字斜体字

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