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2007年9月19日水曜日

盲腸線の旅(第27回)~南海汐見橋線・津守駅

南海・汐見橋線・津守駅・駅舎(2003年8月15日)

今回は南海汐見橋線の津守駅です。津守駅は無人駅であり、駅舎もシンプルな造りとなっており、あまり愛想がありません。この駅舎は汐見橋方面ホーム側に建っています。


南海・汐見橋線・津守駅・ホーム(2003年8月15日)

2面2線の相対式ホームであり、岸里玉出方面ホームへは構内踏切で渡ります。構内は上屋の状態も含め、かなり年季が入っています。


南海・汐見橋線・津守駅・高野線跨線橋(2004年10月23日)

「新阪堺調査局」を本体とするこの「新・しゅらくの独り言」としては上の写真の跨線橋をふれなければなりません。
この津守駅の岸里玉出側には上の跨線橋が存在しており、現在は車が通っていますが、かつては新設軌道(通称、専用軌道)が敷設されており、新阪堺線、後の大阪市電三宝線がオーバークロスして通っていました。


南海・汐見橋線・津守駅・架線柱(2004年10月23日)

新阪堺線は1927年(昭和2年)10月1日に開通しましたが、この新阪堺線が敷設されていた頃、南海高野線(現在の汐見橋線の区間を含む)は複線化を始めていた頃でした。1924年(大正13年)3月18日に住吉東~我孫子前間の複線化を皮切りに、1926年(大正15年)12月1日までに、新阪堺線が立体交差している木津川~西天下茶屋間を除き、汐見橋~堺東間の複線化が完了しました。以後、何故か木津川~西天下茶屋間は複線化がしばらく行われず、堺東~北野田間が複線化された後の1930年(昭和5年)4月12日にようやくこの区間が複線化されました。
(南海高野線複線化の参考文献:『南海電気鉄道百年史』)
何故木津川~西天下茶屋間の複線化が遅れたかについては、その原因として新阪堺線の跨線橋建設が遅れたことが考えられます(1927年(昭和2年)になってようやく建設されはじめました。)。
ちなみに、上の写真は跨線橋付近の架線柱ですが、日付でもわかるように木津川~西天下茶屋間が複線化されたときに建てられたものです。
次回は西天下茶屋駅の予定です。

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