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2009年6月18日木曜日

堺文化財公開(平成21年春季)

平成19年、20年と連続して開催されていた堺文化財公開が平成21年は秋季だけではなく、春季にも開催されました。今回は「堺と天下人の物語 ~信長・秀吉・家康~」というテーマで三寺社の文化財が平成21年5月20日から24日にかけて公開されました。
私は徳島から(結婚式出席のため)名古屋経由で堺に来た母に転居の手伝いをしてもらい、この三寺社を見学することにしました。


堺・南宗寺・唐門(2009年5月24日)

まずは南宗寺です。南宗寺は前回、前々回も公開されていたのですが、今回は上の重要文化財である唐門が開門され、ここから南宗寺に入ることができるようになったことが公開のポイントです。唐門は征夷大将軍と堺奉行にだけ通行が許された門であり、歴代の堺奉行は就任後、この唐門を通って参詣したとのことです。


堺・南宗寺・唐門・瓦(2009年5月24日)
実際にこの唐門には徳川家の葵の紋が用いられています。


堺・南宗寺・徳川家康の新墓(2009年5月24日)

唐門を通ると、この徳川家康の墓の前に到着します。この徳川家康の墓は戦後、水戸徳川家家老の子孫である三木啓次郎や松下電器の松下幸之助らが建立したものです。この墓のあった場所にはかつて東照宮拝殿があり、徳川家康と縁のある場所といえます。
ちなみに、観光ガイドのボランティアの方によると、松下幸之助が「ナショナル」でテレビ放映するコンテンツを三木啓次郎に相談したところ、明るいナショナルのイメージから水戸黄門を薦め、松下幸之助は水戸黄門が続く限りスポンサーを続けるといった逸話があるそうです。


堺・南宗寺・伝徳川家康の墓(2009年5月24日)

なぜ、この南宗寺に徳川家康の墓があるのでしょうか?実は徳川家康は大坂夏の陣のとき、槍で突かれ、討ち死にしたという伝説がこの南宗寺にはあります。合戦中のため、家康の死は秘され、遺骸を南宗寺の開山堂の下へ仮に葬り、その後、上写真の無銘の供養塔が建てられたとされています。ちなみに、その後の家康は影武者が務めたとのことです。この無銘の供養塔では十分ではないという話が出て、三木啓次郎や松下幸之助らが徳川家康の墓を建立することになったそうです。
この話について、伝説の域を出ないのですが、この南宗寺に2代将軍秀忠、3代将軍家光が相次いで参詣していることも前の伝説が語られている要因と考えられています。


堺・大安寺・枯山水(2009年5月24日)

次は大安寺です。場所は南宗寺のほぼ隣といってもよいくらいの場所にあります。ここではやはり重要文化財に指定されている本堂と本堂内にある同じく重要文化財の狩野派の襖絵が公開されました。以前の公開よりも近くで襖絵を見ることができました。なお、襖絵の撮影が禁止されていたので、代わりに大安寺の枯山水をアップしておきます。


堺・妙国寺・天然記念物の蘇鉄(2009年5月24日)

最後は妙国寺です。今回のテーマでは信長と縁のある蘇鉄が有名です。妙国寺から株を分けられ、安土城に植えた蘇鉄が「堺に帰りたい」の泣き叫び、信長がその蘇鉄を切らせたところ、赤い血のような液体を出し、恐ろしくなった信長が蘇鉄を妙国寺にもどしたというのが大まかなあらすじです。上の写真は安土城から戻ったとされる天然記念物の蘇鉄です。


堺・妙国寺・ただの蘇鉄(2009年5月24日)

妙国寺には安土城には行かなかった蘇鉄もあるのですが、こちらは天然記念物には指定されていません。こちらの方が立派なのですが、逸話のあるなしで大きな違いがでている例です。おや、秀吉の話はどうしたのか、という人もいらっしゃると思いますが、今回の文化財公開に当たり、大阪城から秀吉の朱印状が妙国寺に戻っており、これがここで公開されていました。この妙国寺は本能寺の変のとき、家康が宿泊しており、ここから伊賀越えをし、三河まで帰りました。
秋季に文化財公開があると思いますので、西脇から堺にまた行きたいと思います。

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