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2010年9月24日金曜日

堺っ子の兵庫県旅行記・第5回(神戸市兵庫区)


堺っ子の兵庫県旅行記の第5回は摂津国の神戸市兵庫区です。
神戸市兵庫区といえば、大輪田泊、兵庫津と呼ばれる日宋貿易で栄えた港町であり、兵庫県の名称の由来となった場所です。
堺っ子の私の個人的なイメージとして、兵庫区の東側にある中央区の三宮や元町の華やかさに隠れて、あまりイメージできませんが、両親の話から昔は栄えていた街だったというイメージをもっています。




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今回はJR和田岬駅前からスタートします。なお、上の地図にある黄色の印の場所を訪れました。黄色の線は兵庫七福神を訪問するために通った道です。



(写真①:2010年8月22日)

さて、車を和田岬駅の地下駐車場に駐め、「盲腸線の旅」で訪問した和田岬駅からスタートします。3年前と異なり、駅舎が無くなっており、その跡にはコンビニとバス停みたいな上屋をもった簡素な駅となっていました。


(写真①:2007年6月3日)

ちなみに、上の写真は3年前の和田岬駅です。


(写真②)

和田岬駅はJR和田岬線と神戸市営地下鉄海岸線が乗り入れており、地下鉄海岸線が通っている道路より海側は三菱系の企業の敷地となっており、勝手に入ることはできません。ということで、海側からその様子をうかがうことにします。7月に乗船した神戸港をクルーズした際、撮影したのが上の写真です。海上自衛隊の潜水艦が三菱重工業・神戸造船所にいます。ウィキペディアで調べたところ、「はくりゅう」という名称があるようです。就役は2011年2月の予定とのことなので、これは就役前です。


(写真③)


同じく、7月に撮影した和田岬の様子です。この和田岬付近に和田岬砲台があるはずなのですが、どこにあるのかわかりませんでした。
地図で見ると、和田岬は特徴ある出っ張った形をしていますが、これは旧湊川から運ばれた土砂と明石海峡からの海流により運ばれた土砂が堆積したために形成されました。




(写真④-1)

さて、8月時に戻り、和田岬駅から兵庫七福神を兵庫津の道に沿って訪問することにします。まずは和田神社です。
この和田神社の七福神は辯財天です。


(写真④-2)

辯財天の像もしっかりあります。では、次の薬仙寺に向かいます。


(写真⑤-1)

次の薬仙寺に到着しました。薬仙寺の七福神は寿老人です。この寺は堺でもお馴染みの行基が開いた寺です。その後、平清盛が福原遷都の際、後白河法皇を幽閉したり(萱の御所跡、これはこの薬仙寺の北側にありましたが、運河拡張工事のため、水中に沈み、その碑はこの薬仙寺に移設されました。)、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、兵庫の福厳寺に宿泊したとき、薬仙寺の霊水を服用薬に奉り、病が回復したと言うことです。このことから医王院薬仙寺という名称がつけられました。
兵庫開港の際にはイギリス公使の宿舎になるなど、歴史の節目に現れていた寺院です。


(写真⑤-2)

この薬仙寺の中に大輪田橋の崩落した石材が震災モニュメントとして保存されています。大輪田橋は1945年(昭和20年)3月17日の神戸大空襲による炎で真っ黒に焼け焦げ、1995年(平成7年)1月17日の阪神淡路大震災により、4本の親柱のうち、3本が崩落しました。このため、保存された石材には黒く焼けた跡があります。では、次の真光寺に向かいます。


 (写真⑥-1)

なお、途中、大輪田橋に立ち寄ります。距離は歩いて約300mです。新川にその大輪田橋が現在も架橋されており、前述のとおり、橋の四隅のうち、3箇所は親柱がありません。


 (写真⑥-2)

唯一残った親柱が上の写真⑥-2です。写真⑥ー1と比較すると、崩落した部分がよく分かります。


(写真⑦-1)

大輪田橋から西へ約100m戻ると、交差点の角に清盛塚と呼ばれる供養塔(写真⑦-1の左側の塔)と琵琶塚(写真⑦-1の右側の石碑)があります。
清盛塚は元々、現在位置より南西約11mの場所(地図のiの位置)にありましたが、1922年(大正11年)の神戸市電松原線の道路(県道489号線)拡幅工事により現在の位置に移動しました。長い間、この清盛塚は平清盛の遺骨を埋葬した墳墓と見られていましたが、移転に伴う地下の調査により墳墓ではないことが判明しました。そのため、鎌倉時代の1286年(弘安9年)に建立された供養塔であることが確認されました。
また、琵琶塚は以前、清盛塚と小道を挟んで北西にあった前方後円墳であり、その形と「平家物語」にみえる琵琶の名人、平経正(清盛の弟である経盛の長男、経俊・敦盛の兄)に結びつけ、琵琶塚と呼ばれるようになったようです。大きな自然石に「琵琶塚」と掘られた上写真の石碑は1902年(明治35年)に建てられ、前述の神戸市電松原線の道路拡幅工事により現在の位置に移動しました。


 (写真⑦-2)

清盛塚の塔と琵琶塚の石碑の間には平清盛の銅像が1968年(昭和43年)に建立されています。1968年(昭和43年)なので、写実的な清盛像となっています。


 (写真⑧)

途中、色々と立ち寄りましたが、真光寺に到着しました。この真光寺の七福神は福禄寿です。割と大きな寺であり、時宗開祖である一遍が全国を遊説中に亡くなった場所です。一遍の弟子が真光寺を建てたとも言われています。この境内には一遍の廟所もあるとのことです。
では、次の能福寺に向かいます。
 

 (写真⑨)

能福寺に行く前に、新川運河のキャナルプロムナード(英語とフランス語の合成語、「運河の散歩道」といったところ)に立ち寄ります。


(写真⑩)

このキャナルプロムナードに兵庫城跡の石碑があります。周りを見ても城らしき痕跡がないので、よく分からないのですが、池田恒興が兵庫城を築いたのが始まりです。その後、尼崎藩が陣屋を置き、天領となった後、勤番所に改装され、明治維新後、初代の兵庫県庁として使用されました。


(写真⑪)

さらにキャナルプロムナードを歩くと、平清盛の像があります。おそらく最近作られたものと思われますが、デフォルメされた平清盛となっています。ただ、ゆるキャラにしては濃いかなあ~と思います。


(写真⑫-1)

前述の新川運河沿いを立ち寄った後、約300m歩き、能福寺に到着しました。能福寺の七福神は毘沙門天です。この能福寺には平清盛の墓所、神戸事件で切腹した瀧善三郎正信の碑そして日本三大大仏のひとつとされる兵庫大仏があります。


(写真⑫-2)

まず、太政大臣であった平清盛の墓所である平相国廟です。相国とは元々は中国の官職であり、現在日本でいうと内閣総理大臣に相当し、前漢の簫何、曹参が知られています。なお、日本では太政大臣のことを指します。1181年(養和元年)に平清盛死去に伴い、能福寺寺領内に平相国廟が建立されたとのことですが、平家滅亡とともに能福寺ともども破壊されました。この平相国廟は1980年(昭和55年)、平清盛の800回大遠忌を迎えるときに再建されたものです。



(写真⑫ー3)

次に、瀧善三郎正信の碑です。この瀧善三郎正信は「神戸事件」の際、当事者である備前藩の責任者です。「神戸事件」とは、1868年2月4日(旧暦・慶応4年1月11日)、対尼崎藩(徳川方)のため、明治新政府により西宮警護を命令された備前藩兵が西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとした、フランス水兵を槍により刺傷させた事件です。この事件は備前藩兵とフランス水兵との銃撃戦、隣接する居留地(現在、旧居留地と呼ばれる地域)を実況検分していた欧米諸国公使に対し、数度一斉射撃する事態にまで発展しました。
この事件は明治新政府の素早い方針転換声明(朝廷より開国和親の宣言と徳川幕府から明治新政府への政権委譲表明)と欧米列強の要求を飲んだ形で備前藩責任者の処罰により決着がつきました。このため、全責任を負う形で、1868年3月2日(旧暦・慶応4年2月9日)、列強外交官列席の下、永福寺で瀧善三郎正信が切腹しました。
このわずか6日後、1868年3月8日(旧暦・慶応4年2月15日)、堺で土佐藩兵によりフランス水兵が11名殺傷、もしくは溺死させられる堺事件が発生しました。この堺事件で明治新政府がフランス公使による要求どおり、賠償金15万ドル及び事件に関わった土佐藩兵のうち、20名を切腹させるように命じました(実際には藩士たちは切腹後、居並ぶフランス水兵に対し、腸を掴み、投げつける行為を行ったため、凄惨さを極め、11名切腹したところでフランス側が中止を要請した。)。堺事件で明治新政府が欧米列強の要求をそのまま飲んだのはこの神戸事件が伏線になっていたのかもしれません。


(写真⑫-4)

そして、これが兵庫大仏です。この兵庫大仏は2代目であり、初代は1891年(明治24年)に建立され、1944年(昭和19年)の金属回収令で鋳潰されるまで、奈良・東大寺の奈良の大仏、鎌倉・高徳院の鎌倉大仏と並ぶ日本三大大仏とされていました。2代目は1991年(平成3年)に再建され、同年5月の開眼法要には東大寺管長、高徳院貫主が臨席しました。現在において、この再建された兵庫大仏を日本三大大仏の一つに入れることについて多くの異論があり、初代兵庫大仏の鋳潰以後、第三の大仏は事実上空位になっているというのが一般的です。
では、次の柳原天神社に向かいます。


(写真⑬)

能福寺より約300m歩くと、柳原天神社があります。柳原天神社の七福神は布袋です。天神さんこと、菅原道真を奉っている天満宮です。
では、次の柳原蛭子神社に向かいます。


 (写真⑭)

柳原天神社より阪神高速3号神戸線の高架下の国道2号線を横断し、約200m進むと、JR兵庫駅近くの高架近くに柳原蛭子神社があります。柳原蛭子神社の七福神は蛭子(えびす)です。
では、最後の福海寺に向かいます。


(写真⑮)

柳原蛭子神社に隣接して福海寺があります。福海寺の七福神は大黒天です。福海寺は1344年(康永3年)、足利尊氏により開基されました。1336年(建武3年)、京都合戦に敗れた足利尊氏が新田義貞軍の兵士に追われることとなり、福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜め、九州に逃れることができました。そして、九州より軍勢を引き連れ、湊川の合戦で勝利し、後に室町幕府を開くことになります。一命をとりとめた針が崎観音堂への報恩と敵味方双方の戦没者供養、祝国安民祈願のために福海寺開基に至りました。
これで兵庫七福神を全て回ったので、神戸高速鉄道・大開駅から湊川駅まで電車で移動します。


(写真⑯)

湊川駅を降り、山のほうへ進んでいくと、神戸電鉄の地下線出入口があります。写真⑯は地下線に入ろうとしている新開地行き電車です。


(写真⑰)

暑い中、雪御所町へ徒歩へ向かい、湊川小学校に到着しました。この校庭に雪見御所跡の石碑があります。残念ながら、中には入りませんでしたが、この雪見御所跡が福原京における平清盛の邸宅跡となります。


(写真⑱)

雪見御所跡を離れ、南へ約200m歩くと、雪御所町公園があります。この雪御所町公園には阪神大水害の慰霊塔があります。この慰霊塔は雪御所町公園の南側で合流する石井川と天王谷川は特に被害が甚大であったため、この地に建立されました。
なお、この阪神大水害は1938年(昭和13年)7月3日から5日にかけ、阪神間を激しい雨(最も激しいときには1時間あたり60.8mm)が襲い、阪神間の広い地域で総降水量400mmを超え、六甲山で616mm、神戸海洋気象台461.8mmが観測されました。このため、花崗岩質で岩盤が風化し脆くなっている六甲山系の急峻な山地から一気に海に流れ下る南側の各河川(芦屋川、住吉川、石屋川、新生田川、旧湊川上流の石井川・天王谷川、宇治川等)なとで決壊、浸水及び土石流などで土砂災害があり、このため、神戸市内は一面の泥海と化しました。
昭和初期には湊川は新湊川として付け替えされていましたが、溢れた水は旧湊川流路へ流れていき、浸水被害を生じさせました。ちなみに、中央区の布引の滝で述べた生田川も新生田川として付け替え、暗渠化されていました(現在は暗渠化されていません。)が、地下流路入口付近で土砂がたまり、旧生田川流路であるフラワーロードに溢れた水が流れ、浸水被害を生じさせました。



 (写真⑲)

雪御所町公園を離れ、新湊川沿いに下流方面に向かっていくと、東山商店街が見えてきます。三宮や元町のように華やかではありませんが、庶民的で地に足の付いたような印象をもつ商店街です。この東山商店街はほぼ旧湊川流域となっています。では、このまま海の方に向かいます。


(写真⑳)

ちなみに、新湊川は流路を西へと変更され、会下山トンネル(写真⑳の新湊川の奥に半分見えています。)を通り、長田区を流れる苅藻川と合流します。この新湊川、かなり高い堤防となっています。これは前述の阪神大水害のような雨が降ると、急激に水かさが増すためだと思います。


(写真(21)-1)

東山商店街を抜けると、湊川公園に出ます。この湊川公園には旧湊川址の石碑が建っています。この湊川公園は旧湊川河川敷を埋めて作られた公園です。


(写真(21)-2)

この山手幹線上にある橋梁状の湊川トンネルは旧湊川の川床を掘削して作られたものです。つまり、旧湊川は高さ5~6m上を流れていた天井川であることがわかります。この湊川トンネルの上に湊川公園があります。


(写真(21)ー3)

この湊川公園では当然と言うべきか、楠木正成の像がありました。湊川の戦いはまさにこの旧湊川付近で行われました。


(写真(21)-4)

湊川公園の南東側には新開地の商店街の入口があります。新開地は埋立・掘削により旧湊川河川敷跡に文字通り新しく開かれた地であり、戦前から昭和30年代半ばにおける神戸の中心的市街地でした。三宮が現在のようになっていくのが昭和40年~50年代にかけてのことなので、両親が神戸に居た昭和40年代前半はまだまだ新開地は繁華街としての地位が高かったものと思われます。


(写真(22)-1)

神戸高速鉄道の新開地駅前(というより上)の国道28号線と新開地商店街の交差点です。この地点で周囲の土地の高さと合わせるまで、天井川であった旧湊川河川敷を掘削しました。このため、新開地商店街の上記写真(21)-4の場所から写真(22)-1の場所まで坂道が続いています。旧湊川はこのまま新開地商店街を進み、山陽本線、国道2号線の湊町1丁目交差点を越え、現在の川崎重工の敷地内を通り、海に流れていました。


(写真(22)-2)

前述の交差点にはええとこと言われた聚楽館がありましたが、現在ではラウンドワンとなっています。そのラウンドワン前にはかつての新開地の繁栄をしめす写真が碑として残されています。まず、写真(22)ー2はその聚楽館前の様子です。祭なので、いつもより人出が多いとは思いますが、にぎわっています。神戸市電も通っているのが分かります。


 (写真(22)-3)

次は神戸タワーです。この神戸タワーは前述の湊川公園付近に建てられていました。1924年(大正13年)に建てられた高さ90mのタワーでしたが、1968年(昭和43年)に老朽化のため、取り壊されました。
時間もすっかり夕方になったので、和田岬駅まで戻ることにします。


(写真(23))

和田岬駅で車に乗り、最後に湊山温泉に行きます。この湊山温泉は雪見御所跡の近くにあります。神戸の市街地にある天然温泉で、大人600円で入ることができます。銭湯形の天然温泉となっており、一日中歩いていた私にとっては非常に気持ちがよかったです。この湊山温泉には駐車場がありますが、公共交通機関を利用するのが無難だと思います。普通の住宅地にあるため、駐められる車の台数が限られる上、道路も狭いからです。私は元々運転に自信がないので、離れた場所のコインパーキングに駐めました。
湊山温泉のウェブサイトは下記の通りです。(リンクはしておりません。)
http://www.jin.ne.jp/m-onsen/index.html

この湊山温泉を跡にし、西脇に戻りました。

今回の兵庫区探訪により、神戸の街(三宮・元町地区)は確かに新しい街ですが、兵庫地区は兵庫津と呼ばれた古くからの港町であり、歴史を感じさせる史跡もあり、かつての港町だった堺出身の私としては非常に興味深い印象を受けました。また、行けなかった史跡も巡ってみたいと思います。
次回は宝塚市です。

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