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2014年2月2日日曜日

年末年始旅行(2013~2014年)(11)滋賀観光・園城寺(三井寺)前編


弘文天皇陵を後にし、徒歩で園城寺(三井寺)に向かいます。
今回、園城寺内の建造物を見学していくことにします。
では、その前に園城寺の歴史の概略を述べさせていただきます。

園城寺は7世紀に近江大津京ゆかりの地に大友氏の氏寺として草創されました。天智天皇の孫であり、672年の壬申の乱で天武天皇に敗れた大友皇子(弘文天皇)の皇子である大友与多王は父の霊を弔うため、自らの邸宅の地であった「田園城邑」を寄進し、寺を創建し、天武天皇より「園城」という勅額を賜ったことが園城寺の始まりとされています。
平安時代に下り、貞観年間(859~877年)になり、天台宗の智証大師円珍和尚が園城寺を天台別院として再興しました。しかし、円珍の死後、天台宗内で円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、993年円珍門下は比叡山を下り、園城寺に移りました。これ以後、比叡山延暦寺と園城寺との対立抗争が続きました。なお、比叡山延暦寺を「山門」、園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」ともいいます。
園城寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を受け、藤原道長や白河上皇等が深く帰依したことが知られるとともに、源氏などの武家の信仰も集め、源頼朝や北条政子、鎌倉幕府の保護や南北朝の内乱では北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けました。ただし、この両幕府からの厚遇は強力な権門である比叡山延暦寺の寺社勢力を牽制するためともいわれています。
1595年、天下人であった豊臣秀吉の怒りに触れ、欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられましたが、死の直前に園城寺の再興が許され、再興が進められた結果、現在の寺観となりました。
明治維新後、「天台宗寺門派」を称していましたが、1946年以後は「天台寺門宗総本山」となっています。
園城寺の沿革を簡単に述べたわりには、長々と壬申の乱の頃から太平洋戦争後までの歴史を語らなければならないのが園城寺の凄いところです。

では、地図に従って、大門に向かいます。園城寺境内は①~⑲の順番で巡りました。今回は①~⑪(赤字)を報告し、次回は⑫~⑲(黒字)を報告します。なお、前回報告した弘文天皇陵及び新羅善神堂は北側(画面右側)にあり、次々回報告する琵琶湖疏水は東側(画面下側)にあります。

<①大門(仁王門):重要文化財>
県道47号線を南下し、園城寺町交差点を右折し、西に向かうと「大門」が見えます。この「大門」は元々滋賀県湖南市にある常楽寺の門であり、室町時代の1452年に建立され、豊臣秀吉により伏見に移された後、1601年、徳川家康により現在地に移されたとのことです。

この「大門」の両脇に2体の仁王像が守護しています。このため、この「大門」は「仁王門」とも呼ばれます。

<②釈迦堂(食堂):重要文化財>
「大門(仁王門)」を入ってすぐ右手に南面して建つ建造物で、室町時代に建立されたものと思われるとのことです。現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする「釈迦堂」として信仰されています。

<③金堂:国宝>
現在の「金堂」は、1599年、豊臣秀吉の正室・北政所により再建されたものです。写真に写っている人影からもわかりますが、大きな建造物であることがわかります。園城寺境内でもひときわ大きく威容を誇っています。この「金堂」には本尊弥勒菩薩が安置されています。

<④鐘楼(三井の晩鐘):重要文化財>
「金堂」の南東方向の前にあるのが近江八景のひとつである「三井の晩鐘」で有名な巨大な梵鐘を吊る「鐘楼」です。1602年に建立され、現在は建立当初と同じく、屋根は桧皮葺となっています。12月30日に訪問したため、翌日・大晦日の「除夜の鐘」の準備がされていました。

<⑤閼伽井屋(あかいや):重要文化財>
「金堂」の西に接して建っている小堂が「閼伽井屋」です。この小堂は1600年に建立されたものです。なお、この内部には井泉が湧いています。

この井泉は「三井の霊泉」と呼ばれ、この霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことが「三井寺」の名前の由来となっています。(「御井」の寺が転じて、三井寺となったといいます。)

また、「閼伽井屋」の屋根の下には左甚五郎作の龍の彫刻があります。

<⑥ 霊鐘堂(れいしょうどう)>
「閼伽井屋」を訪問した後、坂を上り、「金堂」の西側にある霊鐘堂には重要文化財である「梵鐘(弁慶鐘)」が安置されています。この「梵鐘」は奈良時代に作られた古鐘で数少ない智証大師入山以前の遺品です。この「梵鐘」は「弁慶の引き摺り鐘」とも言われ、延暦寺との争いで弁慶が奪い、比叡山に引き摺りあげて撞いてみると、「イノー・イノー(去のう・去のう)」と響いたので、弁慶が「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒り、鐘を谷底に投げ捨ててしまったという言い伝えがあります。この「梵鐘」には傷や欠損があり、これらの損傷は「山門寺門の抗争」の名残と思われるとのことです。

<⑦一切経蔵:重要文化財>
「霊鐘堂」のすぐ近くに、「一切経蔵」があります。この「一切経蔵」は室町時代の建築物で、毛利輝元の寄進により、1602年に山口市の国清寺の経蔵を移築したものです。内部には一切経を納める回転式の巨大な「八角輪蔵」が備えられており、こちらも重要文化財となっています。

<⑧三重塔:重要文化財>
南に少し歩くと、高くそびえる「三重塔」があります。この三重塔も室町時代の建築物で、1597年に豊臣秀吉により伏見に移築された大和の比蘇寺の塔を1600年に徳川家康が園城寺に寄進したものです。

<⑨唐院潅頂堂:重要文化財>
三重塔を通り過ぎると、園城寺でも重視されている唐院のエリアに入ります。
唐院は智証大師円珍が858年に入唐し、その帰国後、868年に請来した経典・法具を納めた伝法道場としたことから始まっています。現在の唐院は宗祖円珍の廟所であり、潅頂の道場でもあります。「潅頂(かんちょう)」とは主に密教で行い、頭頂に水を濯(そそ)いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な後継者とするための儀式です。元々は古代インドで行われていた王の即位や立太子での風習でした。ちなみに、農地に外部から水を人工的に供給することを「潅漑(かんがい)」と言いますね。
写真の建築物は「潅頂堂」で、桃山時代の建築物です。西の山側にある「大師堂」の拝殿としての役割を備えています。
その「大師堂」は1598年の建築物で重要文化財となっています。この「大師堂」には2体の智証大師像と黄不動尊立像が安置されています。更に、その「大師堂」の前にあり、「潅頂堂」と挟まれた位置にある「唐門」も重要文化財となっています。この両者は上写真の右側に、見切れた状態で写っています。
なぜ、「大師堂」と「唐門」が見切れた写真しかないかというと、この「潅頂堂」が唐院だと思いこみ、見過ごしてしまったからです。何たる不覚!次回、京阪大津線撮影時には撮影することにしましょう。

 <⑩唐院長日護摩堂:滋賀県指定文化財>
「潅頂堂」の南隣には「長日護摩堂」があります。この「長日護摩堂」は寺伝によると、江戸時代初期の後水尾天皇(1611~1629年)の祈願により建てられたものといわれています。
なお、護摩堂は専ら「護摩」を修するための堂のことを指します。「護摩」といえば、阪神タイガースの某選手が高く上がった炎の前で、経を唱える様子を思い浮かべますが、元々バラモン教の儀礼を大乗仏教成立の過程で取り入れられたものと考えられています。このため、上座部仏教には存在しません。
語源は「焚く」「焼く」を意味するサンスクリット語のホーマ(homa)を音訳して書き写したものとされています。ちなみに、「護摩」は日本語では「ごま」と発音しますが、中国語普通語では「フーモゥ(hu(4)mo(3))」と発音します。

<⑪唐院四脚門:重要文化財>
「潅頂堂」の正面にあるのが「四脚門」です。「四脚門」は唐院の表門で、奥へ「潅頂堂」、「大師堂」と一直線に並ぶ最前列に位置にあります。

今回は以上です。⑫以降は後編で記述したいと思います。次は「微妙寺」となります。

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