大津港から再び浜大津駅に戻り、京阪石山坂本線で坂本方面の2駅先にある別所駅に向かいます。
別所駅を降りると、大津市役所が目の前に現れます。弘文天皇陵は大津市役所の裏側にあります。
弘文天皇陵へは大津市役所及び大津市消防局の前を北に進み、大津市消防局に沿って、北方向から西方向へ回りこみます。
弘文天皇は大友皇子であり、天智天皇の皇子です。そのこともあり、この弘文天皇陵付近の地名には皇子山と名前がつく地名が多いのだと思います。大友皇子は日本初の太政大臣に任じられ、天智天皇の後継者として統治を始めたが、天智天皇崩御後、大海人皇子(後の天武天皇)との間に壬申の乱と呼ばれる1ヶ月間に及ぶ内乱において争い、敗戦した上、自ら最期を遂げました。
実際に即位したかどうか定かではなく、大友皇子は長らく皇統に認められず、約1200年経過した1870年に弘文天皇と追諡されました。
弘文天皇陵のそばには新羅善神堂(しんらぜんしんどう)があります。この新羅善神堂は次に訪れる三井寺(園城寺)所属の国宝・建造物で、足利尊氏による再興の伝えをもつ社殿です。智証大師ゆかりの国宝・新羅明神像が安置されています。なお、写真はちょうど裏手から撮影したものです。
弘文天皇は大友皇子であり、天智天皇の皇子です。そのこともあり、この弘文天皇陵付近の地名には皇子山と名前がつく地名が多いのだと思います。大友皇子は日本初の太政大臣に任じられ、天智天皇の後継者として統治を始めたが、天智天皇崩御後、大海人皇子(後の天武天皇)との間に壬申の乱と呼ばれる1ヶ月間に及ぶ内乱において争い、敗戦した上、自ら最期を遂げました。
実際に即位したかどうか定かではなく、大友皇子は長らく皇統に認められず、約1200年経過した1870年に弘文天皇と追諡されました。
弘文天皇陵のそばには新羅善神堂(しんらぜんしんどう)があります。この新羅善神堂は次に訪れる三井寺(園城寺)所属の国宝・建造物で、足利尊氏による再興の伝えをもつ社殿です。智証大師ゆかりの国宝・新羅明神像が安置されています。なお、写真はちょうど裏手から撮影したものです。
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