今年も去年に引き続き、やっさいほっさい祭りを見に行きました。今回は新たに購入したビデオカメラでこのやっさいほっさい祭りを追うことにしました。
三脚を持ち、気合いを入れて、祭事の始まる1時間前から準備していると、祭事を運営する関係者の方から、撮影した映像を提供してもらえないかと依頼され、快諾した私は堺まつりに引き続き、腕章を付け、撮影することになりました。ただし、今回は静止画ではなく、動画(フルハイビジョン、5.1chサラウンド)です。このため、デジタル一眼レフカメラも持ってきたのですが、一切使用せず、ビデオ撮影に集中することになりました。このため、今回の写真は動画からキャプチャーしたものです。
やっさいほっさい祭りは石津太神社の重要な祭事です。拝殿の前の広場に108束のシバを積み重ね、燃やします。上の写真はちょうど108束のシバに点火するための火が拝殿より出てくるところです。
点火後、火は大きな炎となり、燃え上がります。この火祭りは過ぎ去っていく今年中の様々な悪いことがなくなり、来年には幸せがたくさんあるように、人々の祈りを込めて行われます。
炎が収まると、火伏せ神事が行われます。まず、燃え残った火に対し、祈祷が行われます。ついで、本殿内で神人(えびすさん)に選ばれた一人が水をかぶり身を清める神事が行われます。
その後、 神人を大勢のまわしをしめた、裸・素足の若者達が神人をかつぎ、残り火の中に飛び込み、火渡りをします。3回火渡りを行い、その後、石津太神社の周りを3周します。
毎回、すごい祭りだと感じていましたが、今回は腕章を付けての撮影だったため、やっさいほっさい祭りの普段は見ることができない部分も見ることができ、大変面白かったです。ただし、堺まつりでも感じましたが、撮らなければならないというプレッシャーも感じ、祭りが終わった後、疲れたため、速攻で帰宅し、すぐに寝てしまいました。
来年もまたやっさいほっさい祭りを見に行きたいと思います。
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2008年12月15日月曜日
2008年12月3日水曜日
ぎっくり腰になろうとは、、、
2008年11月21日、仕事中にお客さんが来所されたので、応接エリアに移動し始めたとき、腰に突然痛覚が走り、歩くたびに痛みが走るようになりました。
翌日、堺浜楽天温泉に行き、じっくりと湯に浸かり、腰の痛みが治まり、安心していたのですが、2008年12月1日に再び痛くなり始め、12月3日、ちょっと我慢できなくなったので、生まれて初めて整骨院に行くことになりました。そこで、マッサージを受けると、もまれる度に痛みが治まり、マッサージがこんなに気持ちいいとは思いませんでした。電気治療も行い、痛みも治まった後で、症状の説明が行われました。
なんと、ぎっくり腰でした。そして、ぎっくり腰を起こしたら、冷やさないといけないとも説明され、温泉に入ったのは逆効果と言われる始末でした。その上、11月23日には広島まで夜行バスで行くわ、宮島では弥山へ山登りをするわ、11月24日には新大阪に0系新幹線を撮影に行くわ、その後には明石海峡大橋までいくわ。全く、腰に良くないことを連続しておこなっていました。とりあえず、明日も整骨院で治療です。しばらくは腰痛に悩まされることになるでしょう。とほほ。
ちなみに、今の状態では腰を温めるのが良いとのことなので、週末は堺浜楽天温泉に行きます!!!
翌日、堺浜楽天温泉に行き、じっくりと湯に浸かり、腰の痛みが治まり、安心していたのですが、2008年12月1日に再び痛くなり始め、12月3日、ちょっと我慢できなくなったので、生まれて初めて整骨院に行くことになりました。そこで、マッサージを受けると、もまれる度に痛みが治まり、マッサージがこんなに気持ちいいとは思いませんでした。電気治療も行い、痛みも治まった後で、症状の説明が行われました。
なんと、ぎっくり腰でした。そして、ぎっくり腰を起こしたら、冷やさないといけないとも説明され、温泉に入ったのは逆効果と言われる始末でした。その上、11月23日には広島まで夜行バスで行くわ、宮島では弥山へ山登りをするわ、11月24日には新大阪に0系新幹線を撮影に行くわ、その後には明石海峡大橋までいくわ。全く、腰に良くないことを連続しておこなっていました。とりあえず、明日も整骨院で治療です。しばらくは腰痛に悩まされることになるでしょう。とほほ。
ちなみに、今の状態では腰を温めるのが良いとのことなので、週末は堺浜楽天温泉に行きます!!!
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ぎっくり腰
紅葉狩り・ぶらり宮島紀行その2
紅葉谷駅から循環式ロープウェイに乗り、獅子岩展望台へ向かいます。途中の緑の山肌に紅葉が映え、非常にきれいでした。
循環式ロープウェイ、交走式ロープウェイを乗り継ぎ、2007年6月以来再び獅子岩展望台にやってきました。今回はここから徒歩で弥山山頂を目指しますが、距離は直線距離で1km、この獅子岩展望台から見ても高い場所にある弥山山頂、しかも一度降りて再び登ることになるので、非常に疲れることが必至です。
細い登山道を黙々と登りました。途中、紅く色づいた木々もあり、きれいでしたが、ほぼ朝一番に登っているため、人になかなか会うことができません。
そうしている内に、2005年9月6日に広島を襲った台風14号により崩れた場所を通過しました。あ~怖い怖い。
ようやく、弥山山頂への途中にある大聖院に辿り着くことができました。上の写真はその中の不消霊火堂(きえずのれいかどう)を撮影したものです。しかし、弥山山頂はまだ300m残っています。
急勾配の道を登り、ようやく弥山山頂に到着しました。さすがに足腰は疲れました(これが後々痛い目に遭うことになりました。)が、美しい瀬戸内の島々や山頂の野生鹿と向かい合ったりし、楽しい思いをしました。
次回は弥山山頂の写真が中心となります。
2008年12月1日月曜日
さようなら0系新幹線
2008年11月30日を最後に、東海道新幹線が開業したときの形式である0系新幹線が定期運用から離れました。上の写真はその1週間前の11月24日ですが、このときも大勢の人々が0系新幹線が停車した新大阪20番線、その隣の21番線に集まり、様々なカメラで撮影していました。
私にとっての新幹線初乗車は中学時代の修学旅行(1984年頃)で乗ったのが初めてです。このときの新幹線は0系新幹線でした。とにかく、初めての新幹線はドキドキわくわくしながら乗車し、とにかく車窓の景色が早く流れていくのが印象的でした。
その後、高校時代には新幹線に乗ることなく、大学時代もお金に余裕があったときに、速達型でない「ひかり」の自由席に乗るだけだったので、ほとんど0系を1号車の乗車位置で待っていた記憶があります。(たまにしか100系や300系に乗れなかったですね。)
0系の後継車種として、100系、300系、500系、700系、N700系が登場しましたが、100系は廃車が進み、山陽新幹線にのみ存在し、300系も廃車が始まり、500系は山陽新幹線のこだまの運用が決定され、新幹線の車両形式としての寿命がどんどん短くなっているような気がします。
ちなみに、GS美神のアニメ第11話に「霊列車で行こう!!」では、廃車された新幹線車両(絵から判断すると0系新幹線)が登場しました。あらすじはその廃車車両に悪霊がたくさん取り憑き、霊列車として新幹線のダイヤを乱していたので、鉄道会社から依頼された美神令子たちが霊列車の乗り込み、悪霊を退治し、そのことにより廃車車両の付喪神(「新幹線の心」と称していました。)が悪霊から解放され、成仏していく話でした。
そんな「新幹線の心」の台詞が作中で次のように語られました。
「私の心の中にはこの新幹線を喜んでくれた人たちのたくさんの想い出があります。みんな、私のことを本当に愛してくれました。そんなすばらしい想い出がたくさんあるからこそ、思い残すことなく天国に行けるのです。私、とても幸せでした。」
残っている0系新幹線は廃車にはなっていませんが、多くの人々に見送られ、同じような思いで引退するのかもしれません。
さようなら、0系新幹線。
2008年11月25日火曜日
紅葉狩り・ぶらり宮島紀行その1
土曜日の昼にふと紅葉狩りをしたいと思い、深夜高速バスで広島にやってきました。早朝に広島バスセンターに到着し、3号線に乗り、この広電西広島駅で降り、しばらく待っていると、広電西広島駅発の広電宮島口行き始発電車がやってきました。
宮島線に乗っている間に夜も明け、広電宮島口から松大観光船に乗り、いよいよ宮島に上陸します。
朝一番に到着したため、宮島には人があまり認められず、静かな雰囲気でした。
朱色の五重塔と紅葉の組み合わせがきれいでした。
ロープウェイに乗るべく、紅葉谷駅に向かいました。宮島には野生の鹿がいるため、紅葉と鹿の組み合わせで写真を撮る多くの人たちがいました。
私も何枚か撮影をしました。
紅葉谷の橋と紅葉の風景がとても美しかったので、思わず撮影してしまいました。朝早くだったので、人がいないときの写真が撮れ、非常に満足です。この橋は昼前にはすでに観光客でいっぱいになっていました。
2007年夏に訪れたときには緑一色だった紅葉谷駅もすっかり紅く色づいていました。
次回は宮島最高峰弥山登山の話です。
2008年11月24日月曜日
姫路から直通特急で大阪に戻った。
新幹線を撮影するため、西明石駅でしばらく過ごした後、更に西進し、姫路駅にやってきました。夕飯は姫路名物の駅そばと生姜醤油で頂く姫路おでんとし、普通ならJRで帰るところを山陽電車で帰ることにしました。上の写真は山陽電車の終点がある山陽百貨店です。
駅構内は狭いですが、関西のターミナル駅の形状となっています。ただ、この山陽電車の姫路駅の特徴は線路が西に向いていることで、姫路をでると、急カーブで南方向に曲がり、飾磨駅付近で再び急カーブで東方向に曲がります。
夜だったので、車窓もろくに見ることができず、ほぼ寝ていました。1時間半程度かけ、ようやく梅田に帰ってくることができました。しかし、しんどかった。
2008年11月23日日曜日
堺文化財特別公開(平成20年)その2
今回は11月9日編です。堺文化財特別公開に開口神社にはいろいろな文化財があり、今年は去年とは異なり、茶室が公開されました。茶室「無礙庵(八窓庵)」は江戸後期の建物で「武野紹鴎」好みのつくりといわれています。1945年(昭和20年)の戦災で焼失しましたが、1989年(平成元年)に復元したものです。
ちなみに、ここではお茶と大寺餅が販売されていました。(開口神社のことを大寺さんと言います。)私はしっかり購入しました。
次いで、堺東方面に向かい、祥雲寺に向かいました。今回の公開部分は写真撮影禁止だったので、写真はありません。ここで、印象的だったのは説明してくれたボランティアの方が非常に良かったですね、いろいろな意味で。また、この祥雲寺は出羽海部屋大阪場所の宿舎があり、それも公開され、土俵を間近でみることができたのも良かったですね。
来年もこのイベントが催されることを願っています。
東京出張 ~ 今回は写真がほとんどありません
2008年11月7日、東京へ仕事のため、出張することになりました。金曜日は懇親会、土曜日は午前は会議、午後は個別会議、残りの時間はIさんと飲み会をしました。上の写真は羽田空港第二ターミナルです。う~ん、仕事と飲みのために東京に行ったようなものだな~。
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東京出張
2008年11月22日土曜日
甲陽線動画撮影とグルメ旅
甲陽線の動画撮影をするため、11月3日早朝から阪急夙川駅に向かいました。朝の7時頃から延々と撮影し続け、6時間経過した昼の1時に終了しました。結局、最終的に編集したビデオは4分半でしたので、ビデオ作品の苦労が少しわかったような気がしました。
ちなみに、上写真は苦楽園口駅と甲陽園駅の間にある水道路踏切です。(某アニメでもこの踏切が背景として使用されていました。)
甲陽園駅に来ましたので、U堀さんお薦めの駅前のパン屋「ビゴの店」のアンパンとメロンパンを購入しました。
アンパンはパン部分を食すると、とたんに香ばしさが口の中から鼻へ抜け、パンのうまさがそれに加わり、非常に満足できました。あんも美味しいのですが、パン自体が美味しいと感じました。
メロンパンについては、外側はカリカリ、内側は柔らかくモフモフしており、メロンパンの正道を行く作りをしていました。
次に、 甲陽園駅前の道を東へしばらく進むと、地階部分に店舗を構えるケーキハウスツマガリがあります。こちらで、プリンを購入しました。
なんといっても、プリンは柔らかく、そのコクのある甘さが苦いカラメルソースと絡めると口の中で両者がハーモニーを奏で、非常に幸せな気分にさせるプリンでした。
また、甲陽園に行きたいですね。
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堺文化財特別公開(平成20年)その1
去年、初めて行われた「堺文化財特別公開」が今年も行われることになりました。2008年10月31日~9日の間、普段は非公開もしくは予約により公開されている文化財が予約なしで見ることができました。
今年は新たに特別公開されることになった文化財を見学することにしました。今回は11月2日編です。
まず、宿院頓宮の飯匙堀(いいがいぼり)です。内部に関しては写真撮影禁止なので、外からの写真となりました。2つの鳥居をくぐり、内部に入ると、名称通りの堀のようなくぼみがあり、くぼみの底は砂地になっているようでした。周囲の石垣は一部崩れかけているところがあったため、石垣の1メートル手前までしか行くことができませんでした。
飯匙堀は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)が所持していた潮干玉(しおひるたま:水をなくす玉)を埋めたところであると言い伝えられ、その堀の形状が飯匙に似ていることから名付けられました。
その言い伝え通り、飯匙堀はいくら雨が降っても水がたまらないといわれています。実際には砂地であるために水はけが良いため、水がたまらないと思われます。ただ、今年9月5日の堺で降った集中豪雨のときも水がたまらなかったかは不明とのことでした。
宿院頓宮からフェニックス大通を西方向に進み、大道筋を超えた次のかどで左折すると、元市立堺病院跡の空き地のそばに千利休屋敷跡があります。屋敷跡には柵があり、普段は内部に入ることができませんが、今回は内部に入ることができました。ただし、内部での写真撮影は禁止されていたので、上写真は柵外からの写真です。
屋敷跡といっても、井戸と灯籠があるだけでしたが、めったに入ることができないため、貴重な体験をしました。
しかし、千利休屋敷跡のすごさは外見ではなく、所有者がいまだに千家であるところです。てっきり、堺市が所有しているものだと思っていたのですが、堺市は土地を管理しているだけとのことです。この千利休屋敷跡は堺の歴史を感じさせます。
場所を少し移動し、少林寺に到着しました。少林寺では今回本堂が公開されました。本堂は撮影禁止なので、庭の枯山水を写真の掲載しました。
本堂では住職さんが堺の昔の話をしていたようですが、時間があまりなかったため、聞くことができなかったことが残念でした。
自転車で旧堺市街から御陵通を東進し、坂道を駆け上り、大仙公園の黄梅庵に行きました。黄梅庵は普段は非公開ですが、今回は内部も含め、公開されました。
この黄梅庵は茶道の四天王と称された松永安左エ門翁が奈良にあった今井宗久所領の茶室を小田原に再興したもので、屋敷内の梅実が黄熟したころに完成したため、黄梅庵と名付けられました。1980年(昭和55年)に市制90周年事業の一環として、相続人の松永安太郎氏より寄贈され、移築されました。
2008年11月9日編はその2でお伝えします。
南海電鉄・千代田工場訪問
2008年10月25日は南海電鉄の千代田工場が鉄道の日記念で一般公開されていました。今回は2回目となりますが、堺東駅から高野線に乗り、千代田工場を訪問することにしました。
千代田工場では休憩所として、南海本線を走る新型車両8000系が使用されていました。写真は8000系の車端部です。ちょうど優先座席付近のもので、オレンジ色のつり革、ドア付近の座席の仕切りが関東の標準仕様車と共通となっています。
8000系の隣には同じく、南海本線から南海の顔であるラピートがやってきました。内部も開放されており、多くの家族連れが内部に入っていました。
この千代田工場で最も大がかりなイベントは21m車両を大型クレーンで吊り下げることです。今回は写真よりも動画中心だったので、吊り下げているところの写真はありませんが、相変わらず迫力のあるものでした。
今年は鉄道の日のイベントはあまり行きませんでしたが、来年もまた参加しようと考えています。
2008年11月19日水曜日
2008年堺まつり・その2
堺まつり・パレードの最後を飾るふとん太鼓は出番まで堺市民会館前で待機しています。今回は石津太鼓仲連合会のカメラマン補助ということで、石津のふとん太鼓を中心に追いかけ、撮影しました。
ふとん太鼓が堺市民会館前でパフォーマンスを行い、大小路の待機場所である阪神高速・堺線高架下へ移動を始めました。
阪神高速・堺線高架下には堺まつりに参加するふとん太鼓が9台(例年は10台、1台は修復のため欠席)勢揃いしています。
堺まつりふとん太鼓連合保存会・役員の皆さんの紹介が行われた後、各ふとん太鼓がスタート地点より大小路を西へパレードを開始しました。石津のふとん太鼓はパレードの前から2番目です。これから、楽しくも苦しい撮影が始まりました。
単にふとん太鼓だけ撮影しても面白くないと思い、様々な被写体を色々なアングルで撮影しようと試みました。
そのため、ふとん太鼓の周りをまるで地球を回る月のように動き回ることになり、体力的には結構ハードなものとなりました。担ぎ手の人たちに比べると、たいしたことないと思いますが。
ふとん太鼓がようやく中間地点の大道筋にさしかかり、大道筋中央の阪堺線を横断し、堺駅前に向かいました。
ふとん太鼓もいよいよゴール手前の市小学校前まで達し、ふとん太鼓の担ぎ手の人たちにも疲れがさすがに見えたものの、テンションはそれに反し、高まってきました。
ふとん太鼓もゴール地点の堺駅前に到着し、ふとん太鼓周辺からは安堵の雰囲気が漂っていました。私もこれで撮影の仕事は終了となりました。
今回の撮影は補助とはいえ、仕事であり、「要求されたものを撮影しなければならない」ことが緊張感を与えていましたが、被写体をどう撮影するか、違ったアングルで撮影できるか等、真剣に集中して考えながら撮影したことができ、個人的にはかなりしんどかったですが、楽しかったです。
(普段も一応考えていますが、必死さという点では違っていました。特に1週間前のぶらり広島散歩紀行の1日目などはテーマも決めず、ただ広島の街をぶらぶら歩き、「そのとき、撮影したいものを撮影する。撮影できなかったものは諦める。」という姿勢でしたので、今回の堺まつりの撮影とは対照的でした。)
また、機会があればやってみたいと考えています。
次回は、堺文化財特別公開についてです。
ところで、来年の堺まつりはどうなるのでしょうか?堺まつり会場の大小路はLRTの特許取得の後、軌道敷設工事や架線設置工事を行うはずでしょうから。まあ、私が考えてもしょうがないですね。
2008年11月18日火曜日
2008年堺まつり・その1
2008年堺まつりは京阪中之島線が開業した10月19日に行われました。早朝、京阪中之島線の撮影を終了した後、堺まつりの撮影のため、堺に戻りました。
今年はUZRさんとともに、報道カメラマンの役割も担いながら、撮影することとなりました。
去年とは異なり、歩道からではなく、関係者以外立入禁止となっている車道から撮影することになりました。上の写真は堺市長を始めとする堺市関係者が集まり、開会式を行っているときの写真です。
堺旧市街の東西方向のメインストリートであった大小路を東から西へパレードするのが堺まつりです。パレードの内容も樣々あります。開会式直後には鎧甲冑の武者が火縄銃で空砲を撃つものもあります。上の写真はちょうど空砲を撃ったときのものです。火縄銃の銃口の前(銃口は上に向いていますが。)で撮影したのですが、射撃後、すさまじい発射音と衝撃波を体に感じ、もう銃口の前には立たないよう心の中で誓いました。
堺まつりのパレードは京都時代祭のような様々な時代の扮装をした人々のパレードばかりではなく、こういった一輪車に乗りながらパレードしたり、ダンスをしながらパレードしたりバラエティに富んだものとなっています。
阿波踊りや仙台雀踊りもパレードします。しかし、阿波踊りも徳島ローカルではなくなりましたね~。
阪堺線も堺まつり当日には普段の倍の密度の6分に1本の割合で運行されています。上の写真は大小路駅の恵美須町方面の臨時降車場です。いつもの乗降場は乗車場となっていました。
折角なので、少しだけ自分の趣味の写真を撮影させていただきました。大小路と大道筋の交差点のど真ん中で阪堺線を撮影しました。普段なら自動車が行き交う場所なので、まず撮影できません。しかも、大小路に敷設されるLRTの工事や営業が始まると、上のような阪堺線のみの写真も撮れなくなると思われるので、(勝手に)貴重な写真が撮れたと思っています。
次回は、今回の報道カメラマンとしての義務である石津のふとん太鼓に付き従って撮影した写真を掲載する予定です。
今年はUZRさんとともに、報道カメラマンの役割も担いながら、撮影することとなりました。
去年とは異なり、歩道からではなく、関係者以外立入禁止となっている車道から撮影することになりました。上の写真は堺市長を始めとする堺市関係者が集まり、開会式を行っているときの写真です。
堺旧市街の東西方向のメインストリートであった大小路を東から西へパレードするのが堺まつりです。パレードの内容も樣々あります。開会式直後には鎧甲冑の武者が火縄銃で空砲を撃つものもあります。上の写真はちょうど空砲を撃ったときのものです。火縄銃の銃口の前(銃口は上に向いていますが。)で撮影したのですが、射撃後、すさまじい発射音と衝撃波を体に感じ、もう銃口の前には立たないよう心の中で誓いました。
堺まつりのパレードは京都時代祭のような様々な時代の扮装をした人々のパレードばかりではなく、こういった一輪車に乗りながらパレードしたり、ダンスをしながらパレードしたりバラエティに富んだものとなっています。
阿波踊りや仙台雀踊りもパレードします。しかし、阿波踊りも徳島ローカルではなくなりましたね~。
阪堺線も堺まつり当日には普段の倍の密度の6分に1本の割合で運行されています。上の写真は大小路駅の恵美須町方面の臨時降車場です。いつもの乗降場は乗車場となっていました。
折角なので、少しだけ自分の趣味の写真を撮影させていただきました。大小路と大道筋の交差点のど真ん中で阪堺線を撮影しました。普段なら自動車が行き交う場所なので、まず撮影できません。しかも、大小路に敷設されるLRTの工事や営業が始まると、上のような阪堺線のみの写真も撮れなくなると思われるので、(勝手に)貴重な写真が撮れたと思っています。
次回は、今回の報道カメラマンとしての義務である石津のふとん太鼓に付き従って撮影した写真を掲載する予定です。
2008年11月15日土曜日
ぶらり広島散歩紀行その2
ぶらり広島散歩紀行の第2日目はまず、白島線での動画撮影となりました。しかし、動画(ビデオ)と静止画(写真)では勝手が違うため、反省点が多いものとなりました。やはり、動画撮影には三脚が必要ですね。
動画撮影後、広島に折角来ているので、原爆関係遺跡を見ることにしました。代表的なのはやはり原爆ドームですが、今回は袋町小学校平和資料館に行くことにしました。私が広島に住んでいた頃はこの平和資料館の元となった西校舎はまだ現役だったようですが、頻繁に袋町小学校の前を通っていたにもかかわらず、良く覚えていません。大阪、東京と渡り歩いているうちに、老朽化の進んだ西校舎を取り壊し、その一部を利用した平和資料館ができました。
この袋町小学校平和資料館には被爆直後、被災者が書き残した伝言が展示されています。これらの伝言を見ると、非常に胸が詰まります。このコンクリート壁に残っている伝言は黒板で隠されたり、漆喰で覆われたりしたため、そのまま保存されることとなり、被爆から54年経過した1999年(平成11年)に再発見されることになりました。
場所が変り、南区の比治山下にある多門院の鐘楼です。鐘の上の梁が被爆当時のまま残されています。
いくつかの原爆遺跡を巡った後、呉線に乗り、呉ポートピアパークに静態保存されている旧呉市電車両を見に行くことにしました。乗車した電車は大阪環状線や阪和線で走っているものとはちょっと雰囲気が異なっていますが、103系です。
半時間ほど乗車し、呉ポートピア駅を降りると、呉ポートピアパークが広がっています。かつては呉ポートピアランドという遊園地でしたが、現在は市民公園となり、無料開放されています。
その中に、旧呉市電の1001号が展示されています。呉市電が1967年(昭和42年)に廃止になるのに伴い、この1001号は対岸にあたる松山市の伊予鉄道の軌道線で2004年(平成16年)まで第二の人生を過ごすことになりました。その後、伊予鉄道から呉市に返還され、市章を付け、塗装と前照灯を呉市電当時に戻し、呉市電の外観に戻しています。しかし、冷房装置や内部設備、広告には伊予鉄時代の名残が認められました。
この旧呉市電車両はすっかり子供達の遊び場となっており、運転台に子供がいない時はほとんどありませんでした。
この後、広島土産を多量に購入し、堺に戻りました。
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